約 57,964 件
https://w.atwiki.jp/gamemusicbest100/pages/5645.html
三国志II 覇王の大陸 機種:FC 作曲者:天岸真志(あまにし ばんじろう) 開発元:トーセ 発売元:ナムコ 発売年:1992年 概要 ナムコ版三国志『三国志 中原の覇者』の続編。 戦争には部隊を動かす戦争モードと、敵部隊と戦闘する合戦パートがあり、合戦パートはRTSのようなシステムとなっている。 音楽は拡張音源チップであるN106を搭載。そのため音色が非常に分厚い。 ゲームオーバーの曲はファミコンのゲームの中でも1、2を争うほどの壮大さと言って良い。 音楽はトーセ所属(後にカプコンへ移籍)の天岸真志氏が作曲。 サウンドテストの入り方:タイトル画面でAボタンを押しながら、十字キーを 上、下、左、右の順に入力する。 収録曲(曲名は仮称) 曲名 作・編曲者 補足 順位 タイトル タイトルBGM 君主選択 君主選択BGM メインフェーズ メインフェーズ(内政モード)BGM 戦争パート 戦争パートBGM 合戦パート 合戦パートBGM 一騎打ち 一騎打ちBGM 戦争終了 戦争終了BGM ゲームオーバー ゲームオーバーBGM エンディング エンディングBGM
https://w.atwiki.jp/sengokusi/pages/360.html
46Neko氏(246Hosaka氏)の三国志シナリオ。気軽に遊べるシナリオ規模である。 あらすじ “Symple is best.“ 三国志です。 城数、10。 武将数、11。 製作時間20分、史上最悪の手抜き作品ですが、よろしくおねがいします。 地域、武将は適当です。この時代、もう曹操と周楡はいませんが、気にしないで下さい。 (OPより) 入手先 戦国史アップローダー 備考 シナリオ名: 三国志(46Neko) 作者: 46Neko 現バージョン: - 最終更新: 2016年7月31日更新 動作環境: SE◎ FE○ 旧× 規模: 中国大陸 開始年月: 220年1月 大名家数: 8 城数: 10 武将数: 11 攻略難易度表(難 S ~ F 易) S A B C D E F キャプチャ画像 リプレイサイト 以下、加筆求む
https://w.atwiki.jp/seikouudoku/pages/38.html
序 三国志(さんごくし)は、いう迄(まで)もなく、今から約千八百年前の古典であるが、三国志の中に活躍している登場人物は、現在でも中国大陸の至(いた)る所(ところ)にそのまま居(い)るような気がする。――中国大陸へ行って、そこの雑多(ざった)な庶民や要人などに接し、特に親しんでみると、三国志の中に出て来る人物の誰(だれ)かしらときっと似ている。或(あるい)は、共通したものを感じる場合が屡々(しばしば)ある。 だから、現代の中国大陸には、三国志時代の治乱(ちらん)興亡(こうぼう)がそのままあるし、作中の人物も、文化や姿こそ変わっているが、猶(なお)、今日に生きているといっても過言でない。 × 三国志には、詩(し)がある。 単に尨大(ぼうだい)な治乱興亡を記述した戦記軍談の類(たぐい)でない所に、東洋人の血を大きく搏(う)つ一種の諧調(かいちょう)と音楽と色彩とがある。 三国志から詩を除(のぞ)いてしまったら、世界的といわれる大構想の価値もよほど無味(むみ)乾燥(かんそう)なものになろう。 故(ゆえ)に、三国志は強(し)いて簡略にしたり抄訳(しょうやく)したものでは、大事な詩味も逸(いつ)してしまうし、もっと重要な人物の胸底(きょうてい)を搏(う)つものを失(な)くしてしまう惧(おそ)れがある。 では私は、簡訳や抄略(しょうりゃく)を敢(あえ)てぜずに、長篇執筆に適当な新聞小説にこれを試みた。そして劉玄徳(りゅうげんとく)とか、曹操(そうそう)とか関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)その他、主要人物などには、自分の解釈や創意を加えて書いた。随所、原本にない辞句、会話なども、わたくしの点描(てんびょう)である。 × いう迄(まで)もなく三国志は、中国の歴史に取材しているが、正史(せいし)ではない。けれど史中の人物を巧妙自在に拉(らつ)して活躍させ、後漢の第十二代霊帝(れいてい)の代(よ)(わが朝(ちょう)成務(せいむ)天皇の御世、西暦百六十八年頃)から、武帝(ぶてい)が呉を亡(ほろ)ぼす太康(たいこう)元年の凡(およ)そ百十二年の長期に亙(わた)る治乱が書いてある。構想の雄大と、舞台の地域の広さは、世界の古典小説中でも比類ないものといわれている。登場人物なども、審(つまび)らかに数えたなら何千何万人にものぼるであろう。しかも、是(これ)に加うる中国一流の華麗豪壮な調(ちょう)と、哀婉(あいえん)切々(せつせつ)の情、悲歌(ひか)慷慨(こうがい)の辞句と、誇張幽玄な趣(おもむき)と、拍案(はくあん)三嘆(さんたん)の熱とを以(も)って縷術(るじゅつ)されてあるので、読む者をして百年の地上に明滅する種々雑多な人間の浮沈(ふちん)と文化の興亡とを、一巻に偲(しの)ばせて、転深思(うたたしんし)の感慨に耽(ふけ)らしめる魅力がある。 × 見方に依(よ)れば三国志は、一つの民俗小説ともいえる。三国志の中に見られる人間の愛慾(あいよく)、道徳、宗教、その生活、又、主題たる戦争行為だとか群雄(ぐんゆう)割拠(かっきょ)の状(さま)などは、宛(さなが)ら彩(いろど)られた彼(か)の民俗絵巻でもあり、その生々(せいせい)動流(どうりゅう)する相(すがた)は、天地間を舞台として、壮大なる音楽に伴(ともな)って演技された人間の大演劇(だいドラマ)とも観(み)られるのである。 × 現在の地名と、原本の誌(しる)す地名とは、当然時代に依(よ)る異(ちが)いがあるので、分っている地名は下に註(ちゅう)を加えておいた。分らない旧名もかなりある。又、登場人物の爵位(しゃくい)官職など、ほぼ文字で推察のつきそうなのはその儘(まま)用いた。余りに現代語化しすぎると、その文字の持っている特有な色彩や感覚を失ってしまうからでる。 × 原本には『通俗三国志』『三国志演義(えんぎ)』その他数種あるが、私はそのいずれの直訳にも依(よ)らないで、随時、長所を択(と)って、わたくし流に書いた。これを書きながら思い出されるのは、少年の頃(ころ)、久保天随氏の演義三国志を熱読して、三更(さんこう)四更(よんこう)まで燈下にしがみついていては、父に寝ろ寝ろといって叱(しか)られたことである。本来、三国志の真味を酌(く)むにはこの原書を読むに如(し)くはないのであるが、今日の読者にその難渋(なんじゅう)は耐(た)え得(え)ぬことだし、又、一般の求める目的も意義も、大いに異(ちが)うはずなので、敢(あえ)て書肆(しょし)の希望にまかせて再訂上梓(じょうし)することにした。 著者
https://w.atwiki.jp/japan_dorama/pages/3683.html
楽天で 三国志 (アニメ映画) を探す! amazonで 三国志 (アニメ映画) を探す! Pandora検索 / mgoon検索 / tudou検索 youku検索 / youtube検索 / fc2検索 映画 1992.01.25~1994.04.09 wikipedia 日 タイトル 動画 新着 1992/01/25 第一部・英雄たちの夜明け tudou tudou 1993/03/20 第二部・長江燃ゆ! tudou tudou 1994/04/09 完結編・遥かなる大地 tudou tudou
https://w.atwiki.jp/ymeconomy/pages/108.html
次の中国・三国時代の武将を五十音順に選びなさい 1 司馬懿 2 曹操 3 董卓 次の文字列を順に選んで『三国志』の五丈原の戦いでの有名な故事にしなさい 1 死せる孔明 2 生ける仲達 3 を走らす
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/36735.html
登録日:2017/04/26 Wed 00 56 30 更新日:2024/05/02 Thu 16 18 28 所要時間:約 22 分で読めます ▽タグ一覧 コミュ障 スキャットマン トウ艾 三国志 三国志演義 不遇 中国史 吃音 名将 地図 山越え 政治家 文官 曹魏 機種依存文字 武将 簀巻き 老将 軍事財政共にイケる…が、空気だけ読めなかった人 遅咲き 高性能じいちゃん 魏 トウ艾(とう-がい)(?-264) 字は士載。 荊州、義陽の人。 ※トウは機種依存文字で、登+おおざと。本来の表記は「鄧艾」。 【下積み時代】 荊州の大都市、義陽の出身。死没時の年齢から逆算するに、190年代後半の生まれだと推定される。208年に曹操が荊州を制圧すると、母親や一族と共に遠く離れた汝南に農民として移住した。 父親は早くに亡くなっており家庭は貧しかったが、どうやら教育を受けられる程度の家格ではあったらしく(*1)、後に県の職員として採用されることになった。 といってもスタート時の身分は都尉学士、つまり町長のお供・兼・役人候補生といったところで、まだまだ正規の役人ですらない身分だった。 その後候補生ではなく正規に役人となるが、その役職は稲田守叢草吏、つまり町の税務署(兼農協)の下っ端役人と言ったところであり、やはり出世とは縁遠かった。 【まだまだ下積み時代】 若い頃のトウ艾は、かつて御者(運転手)として仕えたこともある名士郭玄信から「君の才能ならいずれ宰相にまでなれるだろう」と評され、また本人も軍事的に重要な地形を見ると測量して戦術を練るなど高い志をもっていたのだが、 しかし現実としては地方の小役人という立場に長く甘んじていた。 というのも彼は前述の通り背景もない貧家の出であり、またかなりきつい吃音症だったので、同僚や上司からはその点を馬鹿にされてなかなか評価されなかったのである。 このためトウ艾は、かなりの年齢(30代後半~40代)までを徴税・農業分野の地方役人として過ごすことになるが、それでもその優れた才能から少しづつ出世はしていき、最終的には上計吏にまでなっている。 上計吏とは地方の会計を中央に報告し、同時に質問に答えたり指示を受けたりする職で、地方官僚ではあったが中央の要職にある人に接する機会が多く、彼らに認められれば中央の出世コースにも乗れる立場だった。 そしてある年、この職務の為に洛陽に赴いたトウ艾は文字通りの「中央の要職にある人」の目に留まり、その才に着目した彼によって掾(属官)として迎え入れられることになる。 そう、当時大尉(国防大臣)として位人臣を極めていた司馬懿その人である。 【司馬懿の下で】 司馬懿によってようやく中央でのエリートコースに乗ったトウ艾は、徐々にその才能を天下に示し始める。 トウ艾が最初にその名を高めたのは、司馬懿から対呉戦線の視察のために南方に派遣された時の事。 現地を視察したトウ艾は「土壌は豊かだが水が足りていません。運河を作って水さえ引ければこの土地の収穫は跳ね上がるし、輸送の役にも立つでしょう」と司馬懿に進言した。 またトウ艾の報告はそれだけに留まらず「この地は豊かな収穫の可能性があるだけではなく、兵站拠点としても非常に優秀であり、対呉戦で大いに役立つと思われます」と具体的な数値を算出して説いてもいる。 司馬懿はこの報告を高く評価し、全てその通りに実行した。これによって対呉戦線には極めて強固な拠点ができ、また同地は水害もなくなり収穫量も上がって豊かな土地になることができた。 【武官デビュー】 こうして行政官として出世していったトウ艾は、ついに南安の太守に昇進した。また同地は蜀漢と面する最前線の一部であったため、同時に軍事面での役職・権限も与えられた。 249年になると、蜀漢の姜維が何度目かの北伐をかけてきたため、トウ艾も対蜀戦線の総指揮官であった郭淮の元でいよいよ実戦に参加することになった。 この戦い自体は、数と地の利を活かした魏軍に対して姜維が殆ど何もできずに引き下がる形になったが、それを見た郭淮は、今のうちに姜維に呼応した西の羌族を討伐しようとする。 しかしトウ艾はこの時「姜維は後退はしていますが、まだそこまで離れてはいません。好機と見れば引き返してくるかもしれません」と進言。 郭淮はこれを受け入れてトウ艾を守将として残したため、予想通りに引き返してきた姜維と、川を挟んで守りを固めたトウ艾との戦いが始まることになった。 姜維は廖化にトウ艾の軍を引き付けておくための陽動を命じて、自身は後方にある別の城を急襲しようとしたが、トウ艾は廖化の動きの鈍さからこれをあっさり看破。 大胆にも防衛線を放棄し、姜維の目的とみられた後方の城まで後退した。 この判断は功を奏し、城を狙っていた姜維は先んじてトウ艾が守っているのを見てこの攻略をあきらめ、今度こそ本当に撤退することになった。 初陣にして大戦果を上げたトウ艾は討寇将軍に昇進し、以後は軍事分野でも大いに活躍することになる。 【司馬家の重鎮】 司馬懿の死後もトウ艾はその子司馬師に重用され、城陽太守、汝南太守、兗州刺史と地方長官職を歴任しつつ、豊富な経験から来る的確な献言で彼を支えた。 トウ艾はこの時期司馬師に対し 「戦に勝つためには軍が強くなければなりませんが、軍を強くするためには農業生産力が高くなくてはいけません。国を強くするためには軍の前にまず民と農業です。人材を評価する際にはここを念頭に置かねばなりません」 と進言し、農政の重要さを説いている。 また長く地方で農業の実務に携わってきたトウ艾は自身の農政能力も抜群であり、各任地では的確な農業政策を施してその生産力を高め、次々と豊かな拠点に変えていった。 そして50代も後半に突入していたトウ艾だったが、軍事面でもその活躍は全く衰えなかった。 255年に起きた大規模な司馬家への反乱(カン丘倹・文欽の乱)では終始主力として活躍し、カン丘倹のかく乱工作を阻止したり、文欽軍を壊走させたり、呉からの援軍を防いだりと大戦果を挙げている。 【VS姜維】 しかし司馬師やトウ艾が南の方に注力している間に、西の対蜀戦線はえらいことになっていた。 253年に丞相費イが暗殺された後、督中外諸軍事となって軍権を掌握した姜維は積極的な北伐を敢行しており、魏に無視できない損害を与えていたのである。 まず254年には魏側の裏切りに乗じた形で3つの県が奪われ、阻止に向かった魏軍も大損害を受けて撃退された。 そして続く255年にはトウ水沿岸における戦いで雍州刺史王経が姜維と戦い、壊滅的な大敗北を喫した。この戦いで失われた兵士は万を優に超える数で、魏としては蜀漢の北伐が始まって以来の大損害となった。 更には姜維の活発な攻撃に伴い、これに呼応した西の羌族もまた不穏な動きを見せはじめていた。 魏にとっては割と洒落にならん危機的状況であり、トウ艾も仮節・安西将軍として急遽西に送られることになった。 しかし同地では「まあ負けたけど、所詮蜀だしこの程度が限界だよね」という楽観論が支配的であったため、トウ艾はブチ切れて 「姜維を舐めるな!こっちは大損害を受けているから絶対また来るぞ!すぐにでも来る!」 と叱咤して各地の防衛を、特に姜維の最優先目標と判断した祁山を重点的に固めた。 翌256年、姜維はトウ艾の予想通り祁山に攻め寄せてきたが、既に防御を固められた祁山の守りは固く、その周辺で多少の小競り合いをするだけに終わった。 やがて攻勢の限界に達した姜維は撤退し始めるが、しかしトウ艾はこれに抜かりなく追撃をかけ、段谷というところで姜維を捕捉し大打撃を与えて壊走させた。 蜀漢はこの戦いで万を超える将兵を失い、その勢いを完全に失った。また国内でも敗北した姜維への批判が大きくなって国論が分裂し、以後は一方的に衰退の道を加速していくことになった。 これ以降も姜維は何度か来襲してきたが、最早その軍に往時の力はなく、ことごとくトウ艾によって防がれる結果に終わっている。 それに対し、トウ艾は持ち前の行政能力を発揮して現地の経済力・防衛力の強化に励み、隴右地方を対蜀漢の一大拠点として飛躍的に成長させていった。 【征蜀】 段谷での大勝利から数年が経過すると、蜀漢は北伐推進派と反対派の激化する内部対立、なのに何をするわけでもない政治に無関心な君主、それをいいことに跳梁する宦官、と亡国フルコンボ状態に陥りつつあった。 これを見てとった魏の大将軍司馬昭は、今こそ蜀漢を滅ぼす好機であるとその意思を周囲に示した。 トウ艾は時期尚早と見たのかこの時期の侵攻には反対していたが、計画は司馬昭本人と鎮西将軍鍾会によって進められ、263年5月に決行されることになった。 しかし計画立案に関与しなかったのが祟ったか、この戦いでのトウ艾は初戦で姜維軍の拘束に失敗し、後退して難攻不落の剣閣要塞にこもる隙を与えてしまう。 姜維が守る剣閣はそのまま鍾会が攻め続けたが、その守りは固く、このままではらちが明かないとみたトウ艾は、司馬昭に 「敵の虚を突くべく、思ってもみないルートから敵の重要地点を強襲すべきです。一気に攻略できなくとも、剣閣に籠る戦力を分散させることはできます」 と進言し、自らその役目を買って出た。 トウ艾は侵攻ルートに無人の地である陰平道を選ぶと、ハンニバルのごとく山岳地帯の道なき道を無理やり強行突破する。 当然ながら軍どころか人間一人すらまともに通れるような地形ではなかったためその行軍・補給は困難を極め、犠牲も強いられたが、これによってトウ艾たち奇襲隊は見事蜀漢の虚を突くことに成功。 剣閣を越えた先にある江油関という砦に満身創痍でたどり着いたところ、守将馬邈があっさり降伏してこれを奪い取った。 このトウ艾の離れ業とも言うべき奇襲に蜀漢は慌てふためき、援軍として北に向かっていた諸葛瞻(諸葛亮の子)を急遽転身させて迎撃に向かわせる。 諸葛瞻は懸命に戦って一度はトウ艾を退けるが、2度目の攻撃には耐えられずに壊滅。 蜀漢の首都を守る戦力は完全に失われ、トウ艾はそのまま首都である成都へと進軍して、劉禅を降伏させた。 時に263年11月、蜀漢はここに滅亡し、三国鼎立の時代は終わりを告げた。この大功を賞し、トウ艾はついにかつての司馬懿と同じ、大尉の階級を与えられている。 既に70歳になろうとしていたトウ艾の最大、そして最後の大戦果だった。 【敵国破謀臣亡】 成都に入ったトウ艾は兵士に略奪を禁じて民心を安定させると、司馬昭に対して 「まずはこの蜀の地を上手く統治して軍を回復させ、やがては水軍を使って呉へ侵攻すべきです。そのためには降伏した劉禅を厚遇して人心を安定させるとともに、呉の皇帝孫休に対しても彼への寛大な処置を見せつけておくことが重要です」 と進言。そして独断で劉禅に行驃騎将軍の役職を与えてその財産を返却し、またその王子や重臣たちにも魏での階級を与えていった。 しかしいくら「戦時には前線の将軍には独断が許される」のが常識ではあっても、流石にこれは越権行為であった。第一既に蜀漢は制圧されて戦は終わっており、上に判断を仰ぐ時間がないわけでもない。 この事後報告を受けた司馬昭も「ちょっと自重しろよ」と注意したが、トウ艾は「この機を逃してはなりません。私は決して国家の損害になるようなことは致しませんのでご安心ください」と独断で事を進めることをやめなかった。 そしてこの両者の不協和音につけ込んだのが鍾会、胡烈、衛カンといった、「トウ艾に1番手柄を取られてしまった」将官たちだった。 彼らは揃って「トウ艾に反乱の気配あり」と司馬昭に何度も訴えたため、ついには司馬昭もこれを信じてトウ艾の解任と逮捕、そして首都への送還を決定した。 トウ艾は司馬懿に見いだされて出世コースにのり、そのまま司馬家3代に忠実に仕えてきた宿老である。 司馬昭からすれば反乱の疑いなど笑い飛ばせそうなものだし、現にこの命令にトウ艾が素直に従っているところから考えても、反乱の意思などなかったのは間違いない。 しかし司馬昭には重大な弱みがあった。彼は260年、主君であった皇帝曹髦を殺しているのである。 始皇帝が初めて皇帝を名乗ってから500年近くがたっていたが、この間に皇帝弑逆という究極の大罪を犯した臣下は、秦の元祖悪徳宦官こと趙高、後漢で跋扈将軍と罵られた梁冀、このわずか2名のみ(*2)。袁術陛下も病死だし まして司馬昭の場合、梁冀の様に裏でひっそり暗殺したわけですらなく、自らを逆臣として排除しに来た皇帝を返り討ちにして白昼堂々ぶっ殺してるわけで、どう考えても言い訳のきかない超大逆行為だった。「趙高のように自分から攻め込んだわけではない」といっても弁護にならないだろう。 仮にこの時代「秦漢魏ぐう逆(ぐうの音も出ないほどの逆臣)ランキング」を作ったりしたら、王莽や董卓あたりとトップの座を争えたこと間違いない。 つまり当時の司馬昭にとって、「逆臣司馬昭を討つと言って○○が挙兵しようとしています」と言われると、冗談では済まないリアリティを持ってしまう状況にあったのである。 しかし現実はさらに非情で、実際に挙兵したのはそのトウ艾を陥れた鍾会の方だったわけだが… トウ艾が逮捕されて都へ送られる途中、代わりに成都に入った鍾会は姜維と組み、打倒司馬昭を呼号し反乱を起こした。 この反乱はほどなくしてあっさり失敗するが、トウ艾への処置に怒っていた直属の部下たちは、上司を開放すべくこのどさくさに紛れて護送車に追いつき、彼と息子のトウ忠を救出した。 しかし反乱を鎮圧した軍監衛カンはトウ艾を逮捕した張本人でもあり、後に復讐されることを恐れてこれを襲わせ、息子のトウ忠もろとも彼を殺害した。 こうして264年1月、トウ艾は申し開きをする暇すら与えられずに反逆者として殺されてしまった。 洛陽にいた他の子どもたちもこの罪に連座して司馬昭に処刑され、妻や孫たちも流罪とされている。 【人物】 長い実務経験を背景に、軍人としては勿論、行政家、農政家としても高い手腕を発揮したマルチな人であり、いずれの仕事をさせても同時代でトップクラスの評価を得ていた。 軍事と違って内政というのは即座に結果が出るようなものではないが、トウ艾が自ら統治した地域はいずれも短期間のうちに急速な成長を遂げている。 特にトウ艾が隴右地方の拠点化に成功したことは、蜀制圧における最大の成功要因だったとすら言える。驚くべき行政手腕である。 後漢~晋にあたる時代は貴族制確立への過渡期であり、トウ艾のような低い身分から出世した人物にとっては非常に風当たりが強い時代だった。 ましてトウ艾の場合は吃音というハンデまで背負っていたのであり、そんな中を実力のみで出世したトウ艾の才能はまさしく驚異的と言えるだろう。 しかし一方で対人スキルはかなり壊滅的であり、その性格に関しては「強情」「性急」「無神経」「傲岸不遜」「自画自賛」「独断専行」など、なかなかお付き合いをためらってしまうNGワードが頻出する。 出自の低さもあって、(相応の身分から出ている)同僚や部下達とも非常に仲が悪く、トウ艾を慕っていたのは直属の部下と同郷の友人たち、そして長く同僚・戦友として共に蜀と戦い続けた陳泰ぐらいしかいなかった。 そしてこのコミュ力の低さは結局、彼に悲劇的な最後をもたらすことにもなった。 後の晋の時代、かつてトウ艾の部下だった段灼という人物が皇帝司馬炎に対し、 「トウ艾は決して謀反しようなどとしたわけじゃないんです。ただ強情でコミュ障でぼっちだったから、誰も彼をかばってくれなかっただけなんです」 と割とひどいことを言って彼を弁護しており、「三国志」の著者である陳寿も「素晴らしい才能と実績を持っていたが、身を守る配慮が無かったので命を落とした。諸葛恪を手厳しく非難していたが、ぶっちゃけおま言うである」(意訳)と断言している。 それ以外に伝わっていることとして、豚足が大好きで食卓には毎日豚足を出させていたという。 料理人も鄧艾が飽きないようにと、鄧城葉氏猪蹄という豚足に複雑な味付けをする技法が編み出され河南省の無形文化遺産となっている。 【家族】 『トウ忠』 嫡男。蜀漢制圧時には父の部下として武将を務めるが、蜀のMr.七光りこと諸葛瞻の守りを突破できずに引き下がるというかっこ悪い所を見せてしまう。 しかし父に「諸葛瞻は強い……まだ勝てない……」と正直に話したところ、「殺すぞ」という身も蓋もない恫喝を受け慌てて命乞いすることに。 そして次の日は死に物狂いで諸葛瞻のこもる綿竹関を再攻撃し、ついにこれを制圧するという戦果を上げた。 しかし蜀制圧後は父親と共に反逆者として逮捕され、前述の通り衛カンに殺されている。 後に彼の子は司馬炎にその罪を許され、宮廷に復帰している。 創作では妙に優遇されており、三国志演義では役者のような白皙の美青年として登場し、姜維と一騎打ちをしてこれを圧倒するという凄まじい強さを見せつけている。 また「若イケメンこそ正義」な現代サブカル分野では人気が沸騰中で、特に中国の三国志関連ではこの手の息子キャラの中で1.2を争う人気を集めているようだ。 【創作作品におけるトウ艾】 三国志創作界隈におけるトウ艾は、一言で言うと「輸入型」に属する。 つまり張飛や趙雲などのように、大衆向けの講談・戯曲・演劇といったメインストリームで成長してきたキャラ達とは異なり、本来別系統の創作で目立っていた人がスピンアウトされて入ってきた感じのキャラである。 同じような経緯をたどって三国志系に「輸入」されてきたキャラには関索、周倉、曹植、左慈などがいるが、トウ艾の場合は彼らと比べても非常にその時期が早い。 @演義以前@ トウ艾の三国志創作への登場は、現代の知名度からは想像もできないほどに早かった。 その時期はなんと唐の時代、つまり三国志創作がジャンルとして確立し始めた草創期にまでさかのぼる。 当時の魏の将でレギュラーだったのは曹操本人、張遼、司馬懿、そしてトウ艾ぐらいのものであり、まさしく破格の扱いだったと言える。 なぜここまでの扱いを受けていたのかと言うと、それはひとえに彼の「知名度の高さ」故である。 当時の中国におけるトウ艾の扱いは以下のような感じだった。 ◆「エリート層のトウ艾像」 儒教的教養のある層からは、トウ艾は「魏晋時代の悲運の名臣」として有名だった。 「国に忠誠を尽くした忠臣だったが、讒言を受けて陥れられた」トウ艾は、ある意味士大夫にとって理想とするタイプの人なのである。 漢民族は本来、実務能力と同じぐらいに保身の能力を重視する。 彼らは国家に責任を持っているが、同時に家、つまり先祖にも責任を持っているからである。漢民族にとって家の祭祀を保つと言うのはそれほどに重いのだ。 なので「いくら功績を上げても、家が守れないんじゃねえ」というのが士大夫の公式見解なわけだが、しかし同時に「でも実はそのスジ通すところにちょっと憧れるかも……」と言う密かな本音もある。 そういう感情が「白起とかトウ艾とかいいよね……」「いい……」的な感じで密かな憧れとなるのである。 ただトウ艾は出自が貧しいため、晋~唐にかけての貴族社会ではマイナス方向へのバイアスも小さくはなかったが、いずれにしても士大夫層での知名度は非常に高かった。 ◆「庶民のトウ艾像」 そして庶民、あるいは土豪などの低い身分の人々にとっても、トウ艾は三国志モノに登場する前から高い知名度を誇っていた。 しかしそれは武将としてではなく、もちろん政治家としてでもなく、なんと神様としてであった。いや、もっと正確に言うなら「怨みを呑んで死んだ祟り神」とみなされていたのである。 詳しく説明すると、まず中国の道教には古くから「厲(れい)」という宗教概念がある。 これは「非業の死を遂げた大人物の霊は瘟神(おんしん。疫病神のこと)となり、生きている人に疫病や天災などの災厄をもたらす」と言う考え方で、日本の怨霊信仰の源流ともいわれる古い民間信仰である。 「寒門の出から実力で立身し、敵を撃ち滅ぼして大功を挙げたが、無実の罪で無念の死を遂げた」トウ艾は、まさしくこの厲の条件にぴったりハマる存在だった。 唐代のオカルト系道教書には「大鬼主トウ艾」という恐ろしい名前で記載されているほどで、完全に瘟神の中でもボスクラスに出世していることがわかる。 この祟りを恐れた民衆、特に蜀や隴右の人々によってトウ艾は篤く信仰されており、これが高い知名度に繋がっていたのである。 とまあこういった感じに幅広い層で知られていたトウ艾は、三国志系の作品で「曹操サイドの将軍」として登場させるのに便利だったというわけ。 しかし当時の三国志創作は到底歴史創作と呼べるようなものではなく、どちらかというと歴史上の人物が登場するエンタメ作品であり、その人格や業績などはほとんど再現されていなかった。せいぜい「吃音」という要素が強調されていたぐらい。 これはトウ艾に限らず、張飛や孔明、曹操などと言った他のメインキャラでも同様である。 @三国志演義@ 元代になると、それまでに蓄積されてきた講談や戯曲などの三国志系創作を寄せ集め、一つの歴史物語として編集していく流れができた。これによって生まれたのが「三国志演義」である。 三国志演義ににおいて敵役である魏将は割とぞんざいな扱いを受けることが多いが、そんな中でトウ艾は比較的好待遇を受けている。 ▼「若い」 史実で言えば長坂の戦いの頃にもう生まれているトウ艾の方が5歳ぐらい年上だが、なぜか姜維から「小僧」呼ばわりされる年齢になった。 でも若武者枠は息子のトウ忠が持っていく感じなので、青年と言う感じでもない。 ▼「強い」 初登場シーンからして「司馬師の陣を奇襲して無双している文鴦の前に颯爽と現れ、一騎打ちを演じてこれを退ける」という美味しい場面であり、その後姜維とも2度にわたって互角の一騎打ちを繰り広げている。 ちなみに息子はもう少し強い。 ▼「賢い」 軍を率いても強く、対姜維戦に投入されると、その知略でそれまで優勢気味に進めていた姜維の北伐を一気に打ち砕く活躍を見せた。トウ艾改善は賢く強い! しかし姜維も孔明同様、「負けたけど敵将を倒したので痛み分け」「勝ってたけど讒言で呼び戻された」「オリジナルの戦いが追加されてそこで勝利」などのセーフティが高確率で作動するので、物語上はそこまで強い印象は受けない。 互角かやや有利といった感じ。 ▼「出世頭、吃音」 再生怪人ばりに出てきては使い捨てられるのが基本の魏将としては珍しく、「幼くして父親と死に別れ、周囲の人々からも認められなかったが、司馬懿だけがその才能を認めて高い地位につけた」と、そのキャラ背景まで語られている。 また「吃音だった」こともちゃんと劇中で触れられてはいるが、彼の発言が実際にどもることはない。古い講談や戯曲などでは(ギャグ的な扱いで)どもっていたようだが、演義成立の際には削られてしまったようだ。 ▼「特に性格に難がある人物ではなくなった」 演義のトウ艾は道徳的にも立派な士大夫であり、史実のようなコミュ障な面は抑えられている。 せいぜい蜀を制圧した後に「大将が呉漢でなくてよかったな、呉漢だったらお前らもう死んでるぞ」(*3)と自慢げに言ったぐらい(これは正史にもある)。 とまあこんな具合で、演義終盤の主役の一人として申し分ないキャラに仕上がっている。 しかし正史要素が加わったことでキャラとしては大きく躍進した反面、登場シーンそのものは大幅に減ってしまった。 古い時代はそれこそ長坂の戦いにも平気で出ていたりしたのだが、三国志の登場人物として組み込まれた以上、流石にそういう時代無視プレイもできなくなってしまったのである。 なのでこれ以降のトウ艾は、「キャラが立つにつれて出番が減る」という珍妙な現象に悩まされることになった。 @それ以降@ 創作としてみた場合、三国志の主役は何といっても劉備達桃園3兄弟+孔明であるのは間違いない。 このため活動時期が彼らとかぶらないトウ艾は、どうしても三国志創作のメインストリームではプッシュが弱くならざるを得なかった。 また時代を経て蜀漢正統論(魏は簒奪者であり、劉備の蜀漢こそが正統な王朝であるとする考え)が力を持っていくに従い、トウ艾への好意や信仰も薄くなっていった。 彼が忠誠を誓うのが魏の皇室ではなく、すでに簒奪ムードに入っている司馬氏だというのもネックか。 悪役の簒奪王朝をさらに簒奪しようとしている悪党のもとで、しかも主人公側の国に引導を渡すという活躍を見せられても、読者としては感情移入しづらいだろう。 現代になるとアニメやゲームなどの新しいジャンルの創作が躍進しているが、やはり登場期間という致命的な問題はいかんともしがたく、あまり目立つ存在とは言えない。 むしろ物語を見る目がシビアになった現代では、(はっきりいってあんまり面白くない)孔明死後の展開はきっぱりと切り捨てられることも多く、なおのこと状況は厳しくなっていると言えるかもしれない。 だが出てきた場合は基本的に優遇され、文武両道のナイスミドルである事が多い。 性格も真面目ながら、吃音持ちかつコミュ障な事をアレンジし「口下手」「冗談が下手」「物事を率直に伝えがち」なキャラになる事が多い。 『横山三国志』 多くの三国志演義系作品同様、孔明死後の扱いはとってもぞんざい。孔明の死から蜀滅亡までの約30年間を最後の1巻、話数にして11話だけで突っ走っている。 トウ艾も263年の蜀制圧直前に唐突に初登場し、 姜維「さあ来いトウ艾!俺は実は剣閣を迂回されただけでで死ぬぞオオ」 トウ艾「チクショオオオオくらえ姜維!難所行軍(※三国志11)!」 姜維「グアアアア!この麒麟児と呼ばれる姜伯約がこんな小僧に……」 トウ艾「この後にまだ俺の逮捕とか呉の滅亡とかがあった気がしたがそんなことはなかったぜ!」 こんな感じでフェードアウトする。 横山三国志は作画資料として中国で出版されていた二種類の連環画(絵本)を参考にしているのだが、トウ艾はなぜか連環画と違って周倉型のヘルメット兜になっている。 本来の連環画ではトウ艾は所謂「コーエー三国志式」のつばが反り返った帽子のようなアレを被っているのだが、これは恐らく横山先生が帽子のつばの反り返り部分を、下から見たつばの裏側と見間違えたものと思われる。 『コーエー三国志』 連環画由来の例の帽子がソンブレロ(メキシカンが被ってる例の帽子)に似ているということで、ドンタコス呼ばわりされている。IIIの頃から欠かさず被っているところを見ると相当にお気に入りのようだ。 性能的には魏でも屈指の強武将であり、統率・武力・知力のトータル部門では関羽・趙雲・姜維らと毎回トップを争えるレベル。 能力傾向としてはライバル姜維に酷似しており、3つの数値が満遍なく高いバランス型。しかし基本的に統率でわずかに上回り、知力でわずかに下回る傾向がある。 しかし姜維は7あたりから急激に政治の数値が低下したため、政治や魅力を併せた合計ではトウ艾がほぼ勝っている。まあトウ艾はトウ艾で魅力があまり高くないので僅差だが。 『三國無双』シリーズ 5までのモブ武将時代は無双演舞で三国志後期の描写が殆どなかった(基本的に五丈原と合肥新城が最終ステージ扱いだった)ため、本編ではかなり地味な存在。 しかしモブにも個々でステータスが設定されるEmpiresシリーズでは例外的に能力が異様に高く、名将としての貫禄と存在感を保っていた。 6で北伐以降の後期魏武将で構成される「晋」勢力の実装と同時に、その所属武将として脱モブを達成。CVは小原雅人。 武官としての活躍時期が50代以降と言う史実を反映してか、若いイケメンが多い近作ではめずらしいおっさん顔。 しかも黄蓋にも負けないガチムチ体型の持ち主というかなりいかついビジュアルだが、性格は非常に真面目で落ち着いた常識人。 史実由来で元は文官という設定もあるが、なんでも「任務で力仕事をこなすうちにこうなった」らしく、そのムキムキの肉体を活かした必殺関節技も見せてくれる。 6以降のタイトルでは自由な武器持ち替えができるためキャラ性能の差はやろうと思えば均一化はできるが、 得意武器の螺旋槍は見た目がドリルで「全攻撃がガードブレイク」という特性を持つ凄まじい重量武器。 一方で固有性能の無想乱舞などはまあ可もなく不可もなく、しかし関節技があるのでロマンはあり、といったところ。 7empiresでは螺旋弩というガトリング砲に持ち替えたが、こちらも癖はあるがなかなか強力。稲姫最終形態。 吃音・コミュ障といった部分については流石に再現されていないが、そもそも前述の通り演義の時点でもろくに採用されていない要素なので、原作通りと言えなくもないかも。 『三国志大戦』シリーズ イラストごとにキャラ付けも能力も異なる本作だが、知勇兼備のイケメンで共通している。 旧版では2からの登場で、高知力の伏兵持ちかつ張遼の持っていた「神速の大号令」の短時間版で小出しにしやすい「刹那の神速」で大暴れ。 しかしやりすぎたあまり3ではエラッタが施され、計略も自分が相手から見えなくなる単体強化の「隠密の神速行」にされた。 新版でも同様のスペックで再登場しているが、新たに晋勢力が追加されたことでそちらでも登場。 いずれも自身の武力と速度が上がることは共通している。 また遊軍が追加された際にはそちらでも出ており、どの鄧艾を使うかでプレイヤーの頭を悩ませている。 『追記:修正だ!』(ヘッドシザーズホイップをきめながら) △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 鄧艾ナイスガイ -- 名無しさん (2017-04-26 01 51 59) 豚足が大好物で自分で料理を作ったくらい。この豚足料理は今でも中国に残ってる。そういえば地図作りのことに触れてないな。当時地図作りは相当変わった趣味で同僚から笑われていたが段谷の戦いでその有用性を大いに示した。 -- 名無しさん (2017-04-26 04 02 03) あとトウ艾をはめて殺した奴らはロクな末路を辿っていない。鍾会を反乱失敗で戦死、衛カンは皇后の讒言により処刑、胡烈は羌族の反乱で戦死、師纂はトウ艾と同時期に何故か殺された(短気で死体が傷だらけだったらしいのでたぶん怨恨) -- 名無しさん (2017-04-26 04 17 21) 有名な人だったから昔からあちこちに廟があったけど、演義とかの影響で「敵を祀るのはよろしくない」って関帝廟とかに改造されちゃったりしてるなかなかに不憫な人 -- 名無しさん (2017-04-26 11 16 27) 蜀を滅ぼした存在ではあるものの劉禅を厚遇したこと、その悲劇的な最期などから、蜀贔屓からも比較的マイナスイメージを持たれにくい印象 -- 名無しさん (2017-04-26 11 31 39) 独断専行ながらも蜀の統治は評判がよかったのか、蜀の官僚だった樊建は司馬炎に鄧艾の赦免を願い出て許されたらしい。 -- 名無しさん (2017-04-26 12 59 33) ぐう逆とかいう突然出現するパワーワード -- 名無しさん (2017-04-26 16 16 31) 蜀滅亡直後はそのゴタゴタに乗じた西南夷や旧蜀臣の反乱、呉によるハイエナが予想される状況だったわけで悠長に中央政府に指示を仰いで待ってる余裕があったかは微妙な所じゃないかな・・・実際は鍾会・姜維の乱と呉の侵攻の時期がズレてくれたおかげでどうにかなったわけだけど -- 名無しさん (2017-04-26 17 07 08) 黄皓に賄賂とかを贈って内通させたりしてたら(実際は斬ろうとして逃げられた)一発で人形劇呂蒙化してたかもね。 -- 名無しさん (2017-04-26 18 01 22) ↑2 呉の侵攻に関しては羅憲か -- 名無しさん (2017-04-26 19 59 53) ミス ↑3 呉の侵攻に関しては羅憲がギリギリ持ちこたえてくれたおかげで首の皮一枚でつながったからな。羅憲は一度司馬昭に援軍要請をしたけどこのゴタゴタのせいか送ってこれなかったからな。ちなみにようやく送ってきた援軍を率いていたのはよりにもよってトウ艾殺害の主犯者の一人である胡烈という。 -- 名無しさん (2017-04-26 20 05 22) ↑4 南中に関しては霍弋がうまくまとめていたおかげで何ともなかったからな。 -- 名無しさん (2017-04-26 20 08 29) 三国志大戦2の姜維と鄧艾のストーリーは超かっこよかった -- 名無しさん (2017-04-26 21 53 02) 小前亮さんの姜維伝って小説で吃音しっかり拾ってて驚いた。異常に格好良い夏侯覇が退場してこの後の展開大丈夫かと思ったら華麗に主役奪っていったわ。胡烈が友人ポジで丘建と共に鍾会よりキャラ立って魅力的に書かれてるって優遇受けてるけど鄧艾好きは読むべき。 -- 名無しさん (2017-06-25 01 25 48) 司馬昭にとっては鄧艾、鍾会、姜維三者共倒れしてくれてよかったと思っていそう -- 名無しさん (2021-02-14 11 06 04) 鍾会は野望と器が釣り合っていないと友人から行く末を心配されていた。 -- 名無しさん (2021-02-28 01 09 32) 鍾会が反乱を起こさなくてもいずれは司馬昭に消されていた可能性が高い。 -- 名無しさん (2021-03-14 00 46 16) 強襲案が採用されて成功した魏延ってとこかな?有能だけど周りに味方がいなくて反逆者扱いされて殺されたとことか似てるし。 -- 名無しさん (2022-05-27 20 30 25) 部下の擁護が的確であるがゆえにヒドイけんについて -- 名無しさん (2022-05-27 20 44 16) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/hokankeikaku/pages/20.html
サモンズボード 三国志パズル大戦 神姫覚醒メルティメイデン 神姫ワルキューレラウンズ/ サービス終了 新星のグランドユニオン/ サービス終了 神羅万象フロンティア/バンダイナムコゲームス 神話帝国ソウルサークル/ サービス終了 すまドラ!/株式会社ランド・ホー サービス終了 聖剣デュランダル 世界樹の迷宮S 悠久の覇者 ソード×ソード
https://w.atwiki.jp/kt108stars/pages/2132.html
515 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/03/06(火) 13 52 47 ID ??? 514 お前のところって仲いいんだな。 うちは前、腐女子vs反腐女子ガチホモ描写同盟vsどっちも嫌い派で 三国志になってたことがあるのでその辺のネタは自主的に封印され続けてる。 下手したら、「美形」という設定のキャラクターを出すだけで嫌な顔をされるものだから 最近のキャンペーンのPCは山賊上がりの髭オヤジ戦士、孫のいるジジイ魔術師、 福福しい顔のハゲの癒し手、ネズミのような面の中年盗賊、 鼻の穴が上を向き、牛蒡のような肌に金壷眼でお水出身の女戦士とか、そんなのばっかり。 516 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/03/06(火) 14 26 50 ID ??? 515 腐女子だらけの鳥取よりも、お前さんの鳥取の方が居たくない気がしてきた。 趣味を押し付けるのは論外だが、PCくらい好きに作らせて欲しいし、 せめて卓の雰囲気に合うようなPCでも愛着が沸くようなPCを作りたい 517 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/03/06(火) 14 28 52 ID ??? 516 ちょっとだけ 515の鳥取に興味を持った俺はどうすれば 絵描く奴がどんな顔してキャライラスト描いてんのか見てぇwww 俺も俺でゴツイブス描きたい 522 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/03/06(火) 20 48 19 ID ??? 515 の鳥取のPCが水木絵で脳内再生された。 523 名前:携帯をW52Tにしてみました[] 投稿日:2007/03/06(火) 21 55 21 ID 8AiMRYXa 516 多分515の環境ではいよいよ好きに作ればああいう感じになってしかも愛着もタップリになっているんだと思うよ!多分! 524 名前:ダガー+お叱りライブ[] 投稿日:2007/03/06(火) 22 54 01 ID 29EJuAKI 515の鳥取に癒される人続出 525 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/03/07(水) 08 24 33 ID ??? 515の鳥取でインスマウス顔のPCとか作りたいぜ 526 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/03/07(水) 10 20 33 ID ??? 515の卓で空気読まずにハーフエルフ美少女キャラとか作ってキモがられたい 527 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/03/07(水) 11 12 52 ID ??? いやぁやはり天真爛漫な美少年キャラでしょう 赤毛で頭がクシャクシャならなお良し 528 名前:ルリエ[sage] 投稿日:2007/03/07(水) 11 25 35 ID ??? 昼は美少女、夜は美少年、朝夕はフタナリの亜神キャラ作って キャラシーびりびりに破かれたい。 529 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/03/07(水) 11 44 36 ID ??? じゃあ、絶世の美形な人面犬キャラで 530 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/03/07(水) 12 25 34 ID ??? 「そいつはシュールだ」そう言い終わると 住人は苦笑いを浮かべながら黙り込んだ。 きみはこのあと困ったちゃんの報告をしてもいいし( 531) 住人と共に報告を待ってみてもいい( 540) 531 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/03/07(水) 14 37 47 ID ??? だがその前に14へ行け 532 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/03/07(水) 18 34 01 ID ??? P.14 「おやどうしてこんな所に来てしまったんだい?残念ながらこの先は通行止めだよ、 冒険が続けたいのならもと来た道へ戻ると良い、もしもと来た場所が判らないのなら ・・・・・・私とここで暮らすのも悪くは無いかもしれないね。こう見えても家事育児は万能なんだ」 もと来た道へ引き返す・・・・・・P.覚えている最後にいたページへ戻る ここで暮らす・・・・・・君は困ったちゃんんを見つけることは出来なかったが、 寿命尽きるまでここで幸せに暮らしたようだ。FIN 533 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/03/07(水) 18 35 06 ID ??? 532 お前にはがっかりだよ 534 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/03/07(水) 18 37 53 ID ??? 俺も書いてから14は即死ページで、迷子ページじゃなかったような気がしてたんだ。 14へ 535 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/03/07(水) 18 53 20 ID ??? しかもページじゃなくてパラグラフだぞ。 スレ127
https://w.atwiki.jp/sangokushi7/pages/66.html
現在地:トップページ>漢詩大会の漢詩全文>今ココ 本人作から真贋を疑われているものまで、色々。 何晏 司馬懿讌飲詩 諸葛亮?梁甫吟 項籍抜山蓋世 韋昭呉鼓吹曲 甄夫人?塘上行 関羽?関帝詩林 何晏 作品一覧・訳・解説:『三国時代の文学スレッド』まとめサイト +一時保管+メモ 【祈猛獣刀銘】 徒搏不兵作戒宣丘造斯器螭獣是劉制禽良昆明亶時末釐厥後蠲民之災 蠲は諸説ありますが、螭獣是劉と見る限り、多足の虫や飛び虫、ようは虫や獣と、蜀の劉氏をかけたものと考えます。 劉氏を滅ぼし、益蜀の民を災いから解放するために作った? 【忘れた(編者が)】 若稽古帝魏武。睿(or淩)哲欽明文思。罄民生之俊徳。懿前烈之極休。 先天而天弗違。後天而奉天時。聿迪明命。肇啓皇基。 夫居高聴卑。乾之紀也。靡徳不酬。坤之理也。 故霊符頻繁。衆瑞仍章。通政辰修。玉燭告祥。和風播烈。景星揚光。 応龍遊於華澤。鳳鳥鳴於高岡。麒麟依於圃籍。䖑虎類於坰疆。 鹿之麌麌。載素其色。雉之朝雊。亦白其服。 交交黄鳥。信我中霤。儵儵嘉苗、吐頴田疇。 古からの道を継がれる魏武。叡智(深智)、穏和、博識なるお方。在野の俊才をことごとく登用し。前烈(先人の功業)の極休(極めて良い点)を賛美なさった。 天に先んじようと遅れようと天の時を自分のものとなさった。古今の書を広げては命を明らかにし、魏の皇基を開かれた。 腰を据え臣下の意見をお聞き入れになる。天のしろ示すところである。主人に返杯しない(報いない)者はいない。地の理である。 ゆえに霊祥は頻繁にあらわれ。瑞祥が弥増した。 (通政辰修がいまいちぴんとこない。政治が天の巡りと一致していることを指すんだろうけど) 庭を燈す大燭は吉祥を告げ。風が百穀を撒く音をたて。大きな星は輝きも明るく。 皇帝の乗る応龍が華澤に遊び、鳳凰は高岡に鳴く。麒麟は田園に身を寄せ、白虎は坰疆(森)に相追う。 鹿の鳴き声が、空間に色を添える。朝に鳴く雄雉の、其の服は白い?。 小鳥が飛び交い、土神を祭るときが来た。良苗の黒緑色が抜けて、田畑に穂先をほころばせる。 詩経の用語が引用されているので、古典や詩経に詳しい方ならもっと深く理解できるかと思います 稽古=古を考察する 鹿之~は曹換の短歌行でも引用されている鹿鳴 小雅「雉之朝雊」 詩経・周頌・有客「亦白其馬」(殷の微子が殷を意味する白馬に乗って、周の祭祀を助けに来た説がある)。 初代天子の生まれた年に該当する五行の徳に応じた色の服を身に着けた説あり(殿は金=白、周と湊は火=赤)。 中霤は屋内で土神を祀る空間。 士大夫が土神をまつる部屋の屋根(一部)をあけると、部屋の中に霤(雨だれ)がおちることから。らしい。 【擬古】 双鶴(鴻鵠)比翼遊、群飛戯大清、常恐失(大)網羅、憂禍一旦并、豈若集五湖、順流唼浮萍、逍遥放志意(永寧曠中懐)、何為怵惕驚 二匹の鶴が比翼となり、空に戯れる。常に恐れるのは網にかかること。憂災が一気に起これば、どうして五湖に集うだろう。思いのまま流れては浮草と接し、遼遥して志意をほしいまま、どうして高く飛び立つことが怖いものか。 こんな感じですか?五湖は一説では呉の湖水、ひいては呉地方を指す。周礼や水経で、沭水は青州。渭水が隴西だか洛陽、湛水が豫州?だったかと。 【失題】初学記版 轉蓬去其根、流飄従風移、□□四海涂、悠悠焉可彌、願為浮萍草、託身寄清池、且以楽今日、其後非所知 転がる蓬は根を離れ、風に流れさすらう。四海の道は草の先頭のようにか細く、悠遠と長きを全う(…何ぞこれ)。願わくは浮草となり、清らかな他に身を託したい。ただ今日が楽しいならば、その後は知るところではない。 「家も無くあちこちを流離ったところで、安住の地は見つからない。明君のそばに身を置き、今を楽しむのだ」といったかんじで? 涂水は益州から流れる水。曹植は自分を蓬に、家族を根に例えた。劉偵は贈従弟詩で清らかな池を詠んでいる。 出典検索とか色々まだなんで、訳すらしてない。個人的保管に使用しているwikiがエラーで使えないので一時的に置かせて下さい 司馬懿 讌飲詩 原典:《晋書-高祖宣帝懿紀》《古詩源》 天地開闢、日月重光。 遭遇際會、畢力遐方。 將掃群穢、還過故郷。 肅清萬里、總齊八荒。 告成歸老、待罪舞陽。 +単語解説 【日月重光】《魏鼓吹曲十二篇-應帝期》「日月為重光」 【際會】偶然であう。weblio辞書 【八荒】八極。八方の果て。yahoo辞書 【告成】《詩·大雅·江漢》「経営四方,告成于王」 【帰老】老いて引退する。goo辞書 【待罪舞陽】「待罪」は皇帝の処分、措置を待つ。謙譲の意。《史記-季布伝》の「臣、無功窃寵、待罪河東」を踏まえるか。 「舞陽」は、河南の一地区の名称。 さて、「秦舞陽(始皇帝暗殺を試みた荊軻の同行者。最初から最後まで震えていただけ)」とは関係あるんだろうか? 訳 天地がわかれ。日月は光を重ねた。 偶然にも重要な事態に遭遇し。遠方で全力を尽くす。 まさに群れなす凡愚どもを蹴散らし。帰っては故郷を過ぎようとする。 万里を厳しく取り締まり。荒れ乱れた地上を統一する。 成功を告げ郷里に帰り。審判を舞陽に待つ。 その他の訳・解説:『三国時代の文学スレッド』まとめサイト 「告成歸老、待罪舞陽」が、この時代の作品によく見られる、前後の比較になっている。 待罪舞陽自体は《史記-季布伝》の「臣、功なくして寵を窃(ぬす)み、罪を河東に待つ」を踏まえたものだと考えるが、意味深。 舞陽の罪を(=皇帝暗殺を目の前で見過ごして)待つ、と。まぁ韻を踏んだだけだろ多分。 諸葛亮? 梁甫吟 原典:《晏子春秋》など 原文 歩出齊城門 遙望蕩陰里 里中有三墓 累累正相似 問是誰家墓 田彊古冶子 力能排南山 文能絕地紀 一朝被讒言 二桃殺三士 誰能為此謀 國相齊晏子 +単語解説 【梁甫】蒿里などと同じ系統。 蔡邕《琴頌》曰:梁甫悲吟,周公越裳。」按梁甫,山名,在泰山下。 《梁甫吟》,蓋言人死葬此山,亦葬歌也。又有《泰山梁甫吟》,與此頗同。 (梁甫は泰山の下にある山の名前。人は死すとこの地に葬られ、また詩にて弔う) 【遙望蕩陰里】 《滄浪詩話 巻五》(嚴羽、宋代)「『《樂府解題》では、“遙望陰陽里”とする』青州には陰陽裏という地名がある」 【累累】積み重なる。連なり続く。 【田彊】《古樂府》卷五作「田彊」のことらしい。《解題》では“田疆固野子”とする。 【地紀】大地の四隅を繋ぐ紐。天網と地紀。 【晏子】晏嬰。wiki 訳 斉の城門を歩き出て、遠くに蕩陰の里を眺める 里には墓が三基 似た形が連なり続く 問いかける「これは誰の家の墓か」 「……、田開彊、古冶子」 力はよく南山を排し、学識は地紀をも絶った ひとつの讒言、二個の桃が三人殺した 謀ったのはだあれ? それは斉国の宰相、晏子様 訳・解説:『三国時代の文学スレッド』まとめサイト 作者については、諸葛亮、曾子(孔子もしくは左丘明の弟子)、無名氏(古楽府)の説がある。 まずは、作者:曾子説について。 李勉《琴説》曰:《梁甫吟》,曾子撰。 《琴操》日:曾子耕泰山之下,天雨雪凍,旬月不得帰,思其父母,作《梁山歌》。 つまり、曾子が作った梁山歌は、「泰山のふもとで耕していたとき、天気が崩れて帰ることが出来ず、父母を思って作った」もの。 ひるがえって諸葛亮作と伝わる作品は、晏子を詠ったものであり、別物。 蔡邕《琴頌》日:「梁甫悲吟,周公越裳。」 按梁甫,山名,在泰山下。《梁甫吟》,蓋言人死葬此山,亦葬歌也。又有《泰山梁甫吟》,輿此頗同。 《琴頌》では、梁甫と周公にまつわるもの。もしくは死者への葬歌。 曹植の「泰山梁甫行」は、長引く戦乱と民衆への憐みを詠ったもの。 《蜀志》曰:諸葛亮好為《梁甫吟》。然則不起於亮矣。 以上のことから、「梁甫吟」という曲調自体は、春秋戦国時代からある古い民謡曲であり、漢の楽府が収集した古楽府としての「古典梁甫吟」も存在したと考えられる。 そして諸葛亮が「古典梁甫吟」を知っている、ここまでは十分考えられる。 ただし、残っている断片からは、古典的な梁甫吟は、ここで「諸葛亮作と伝わる梁甫吟」とは、別物だった可能性が高い。 《古今樂錄》曰:「王僧虔《技錄》有《梁甫吟行》,今不歌。 「今はもう歌われていない」とある以上、古い作品がどんなものかは、王僧虔の時代には不明だったと思われる。 したがって、「諸葛亮作と伝わる梁甫吟」が「古典梁甫吟」なのか、それとも「諸葛亮の真作」なのかは不明。完全なオリジナルではなくとも、一部を替え歌にしている可能性もある。 謝希逸《琴論》曰:諸葛亮作《梁甫吟》。 謝希逸(謝荘、421年生)が何をソースにしているか? 蜀漢正統論がらみ? 《琴経(国立公文書館)》「諸葛孔明懐琴隆中所作水龍吟至今傳世」(紫雲調考よりの又引き) この水龍吟が、梁甫吟と同じかどうか? 何にせよ、「作者は諸葛亮かもしれないね」扱い……にしたいところだが、諸葛亮ではなく別人の作だと断言しているサイトもある。まだ見落としているソースがあるのかしら。 +他の解説 未訳分 《陳武別傳》曰:武常騎驢牧羊,諸家牧豎十數人,或有知歌謠者,武遂學《泰山梁甫吟》《幽州馬客吟》及《行路難》之屬。 西溪叢語:姚寬 南宋 梁父吟取意 樂府解題有梁父吟。 蜀志諸葛亮傳云:「亮躬耕隴畝,好為梁父吟。」 藝文類聚吟門云:「蜀志:諸葛亮梁父吟云:『日出齊城門,遙望蕩陰里。里中有三墳,纍纍正相似。 問是誰家冢?田疆、古冶氏。力能排南山,又能絕地紀。一朝被讒言,二桃殺三士。誰能為此謀?相國齊晏子。」 又青州圖經臨淄縣塚墓門云:「三士塚,在縣南一里。三墳周圍一里,高二丈六尺。」 張朏齊記云,是烈士公孫捷、田開疆、古冶子三士塚,所謂「二桃殺三士」者。 唐褚亮梁甫吟曰:「步出齊城門,遙望蕩陰里。里內有三墳,纍纍皆相似。借問誰家塚?田疆、古冶子。」 李白有梁甫吟一篇,云:「力排南山三壯士,齊相殺之費二桃。」 杜甫李邕登歷下亭云:「不阻蓬蓽興,得兼梁父吟。」 又登樓詩云:「可憐後主還祠廟,日暮聊為梁父吟。」 陸士衡擬今日良燕會云:「齊僮梁父吟。」 李善注云:「蔡邕琴頌曰:『梁父悲吟。』」 不知名為梁父吟何義。 張衡四愁詩云:「欲往從之梁父艱。」 注云:「泰山,東嶽也。君有德,則封此山,願輔佐君王,致於有德,而為小人讒邪之所阻。梁父,泰山下小山名。」 諸葛亮好為梁父吟,恐取此意。 項籍 抜山蓋世 原典:《史記 本紀 卷七 項羽本紀第七》 原文 力拔山兮氣蓋世。時不利兮騅不逝。 騅不逝兮可柰何。虞兮虞兮柰若何。 訳 力は山を抜き、気は世をおおう。しかし時は味方せず、騅も前に逝けぬ。 この私が、逝かぬ騅をどうにもできぬ。虞よ、虞よ、お前をどうしたものか。 【騅】項籍の愛馬 【虞】虞美人。項羽の妻or恋人。虞美人草の元ねた。(wiki) コメント この漢詩は琴曲調であるとする説もある(「支那文学考」等)。虞美人の奏でる琴曲に合わせて舞ったのだろうか。 なお「古文真宝」には、「虞美人草」という漢詩もある。 韋昭 呉鼓吹曲 呉が韋昭に作らせた軍歌で、漢の鼓吹曲がベース。→「呉鼓吹曲十二篇」 甄夫人? 塘上行 蒲生我池中、其葉何離離 傍能行仁義、莫若妾自知 衆口鑠黄金、使君生別離 念君去我時、独愁常苦悲 想見君顔色、感結傷心脾 念君常苦悲、夜夜不能寐 莫以賢豪故、弃捐素所愛 莫以魚肉賤、弃捐葱与薤 莫以麻枲賤、弃捐菅与蒯 出亦復苦愁、入亦復苦愁 辺地多悲風、樹木何翛翛 従軍致独楽、延年寿千秋 訳・解説: →塘上行(曹操・曹丕・甄夫人) 関羽? 関帝詩林 原典:関林にある石碑、西安碑林博物館の拓本他、各地の三国志関連遺跡 原文 不謝東君意、丹青獨立名 莫嫌孤葉淡、終久不彫零 +単語解説 【竹】漢代、梁の孝王が、東庭に竹を植えて修竹苑と称したことから、「竹の園生」で皇族を意味する。 また、《後漢書 鄧禹伝》などの「竹帛」、文天祥などの「汗青」というように、書籍の用紙代わりに使われた。 このことから、竹は転じて歴史書を意味することが多い。 【東君】《楚辞/九歌》に東君(太陽の神)という辞があるにはあるが、関羽が楚辞を知っていたかどうか? 礼記、易経(説卦伝)など、古代では立場によって座する位置が違うので、立場の表示もあるか? 曹操、劉備のどちらを指すかは不明。 【丹青】絵の具。絵画そのもの。 なお、「丹心」でまごころ、「汗青」は「歴史」を意味する。 竹簡を作るとき青竹を火であぶる作業があり、そのとき滲み出る水分を竹の汗(=汗青)と見立てたから。 この作業をへて作成した竹簡は、長いこと青いままだった。 【莫嫌孤葉淡】「嫌」を「嗛(恨む、疑う)」とする説あり 【彫零】枯れ落ちる。彫は「凋」がしぼむ、「雕」が刻む、彩色する。零はこぼれ落ちる。 別名「風雨竹」。洛陽関林に置かれている石碑などに、竹の葉の絵で刻まれた漢詩。 関羽が曹操のもとに居るとき、劉備宛に作成したという伝承をもつ。偽作扱いされることもある。 現在の石碑自体は、右下に彫られている「弘治二年十月十八日 楊州淘河獲出環鈕 共董二斤四両 其文曰漢壽亭候之印」(明代の黄希聲?によると「宏治三年(1490年)十月十八日揚州淘河獲“漢壽亭侯之印”」)の文章から、この頃に、漢壽亭侯之印を、川底から引き上げた記念として作られたものか、もしくは、石碑だけあって、後に印と字が刻まれたものと思われる。 内容については、敵地で劉備への思いを明記するわけにもいかんので、竹の葉を字の形に並べて送ったとされ、中国最古の暗号文じゃないかとも。 内容もわざと曖昧にしてあるっぽい。なので、解釈も色々。 不謝東君意 曹操の行為には感謝しない、劉備に対しやましいところはない、etc. 丹青獨立名 丹青で竹画を描き我が意を示す、頂いた漢壽亭侯之印をここに示す、義は語らずとも歴史に残る、etc 莫嫌孤葉淡 竹画の絵の色が薄いと嫌わないでほしい→私の非才を、忠誠が薄いと嫌わないで欲しい、私の態度を恨まないで欲しい 終久不彫零 印(=貴方と私との繋がり)は欠けぬまま在り続ける、絵画の竹葉は永遠に枯れない→私の忠誠は永遠だ、etc 大航海時代onlineでは、「伝国の玉璽」の所在情報を示す漢詩として登場する。 というわけで、本物だったらいいなという夢のある話。 ついで【関林(関林堂)】 河南省洛陽市の南郊外にある、関羽の首が葬られたとされる場所。 関羽を討った呉は、魏に首を送った。曹操は、その首と上等な檀香木で作った体を、洛陽の墓地に葬ったという。 時代の変遷とともに、塚(王侯の墓)→陵(皇帝の墓)→林(聖人の墓)に改められた。 関帝廟は各地にあるが、洛陽の関林は最古のものとされる。 無傷で保存されている建築群の一つで、歴代の墓志碑の展示室や三殿、清代の亭式建築が残っている。 洛陽古代芸術館という顔も持ち、1979年、河南省から、日本で言う重要文化財の認定を受けた。関羽のものといわれる2mの大刀、洛陽から出土された多くの石刻や石碑などがある。 関林には、同じ三国時代の名将母丘倹、諸葛誕の叛乱を鎮圧した王基の墓もある。 なお、写真撮影はご遠慮ください。
https://w.atwiki.jp/coyote/pages/19.html
サ行